大阪高等裁判所 平成12年(う)216号 判決 2000年6月02日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中一一〇日を原判決の刑に算入する。
理由
本件控訴の趣意は弁護人蒲田豊彦及び同大橋恭子作成の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官山田一清作成の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
一 事実誤認の主張について
論旨は、要するに、「被害者である甲野太郎(以下「甲野」という。)が被告人に対し出刃包丁の刃先を向けた行為は、被告人と甲野との距離感、現場が狭い廊下で身動きがとりにくかったこと、甲野が包丁を被告人に奪われまいとして抵抗したことを総合考慮すれば、被告人の生命に対する急迫不正の侵害に当たる。被告人が甲野の身体の枢要部を多数回サバイバルナイフで刺したのは、甲野と近距離で対峙し同人から新たな攻撃が加えられる危険が消滅していない状況下で、甲野の着衣が上下とも黒色のウインドブレーカーであったため、いくら刺しても甲野の身体から血がにじみ出るということがなく、自己の行為の結果について確信が持てずに防衛行為を続けた結果にすぎないから、防衛行為として相当性の範囲を超えるものではない。したがって、被告人の行為には正当防衛が成立し、被告人は無罪である。また、仮に、急迫不正の侵害が客観的には認められないとしても、被告人の主観としては、甲野と対峙し、その手にしていた出刃包丁を奪おうとしたものの甲野の抵抗にあって失敗した時点では、身体に対する危険にとどまらず、生命の危険を感じたのであり、生命に対する急迫不正の侵害を誤信したものとして誤想防衛が成立するから、被告人に対し殺人の故意責任を問うことはできない。しかるに、原判決は、客観的に急迫不正の侵害はなかったとして正当防衛の成立を否定し、誤想防衛の点についても、急迫不正の侵害を誤信したのは身体に対する危険の限度であるとして、その成立を認めず、誤想過剰防衛の成立を認定するにとどめたものである。したがって、有罪認定をした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある。」というのである。
しかしながら、原判決挙示の証拠を初めとする関係各証拠によれば、本件について、正当防衛ないし誤想防衛が成立する余地はなく、原判決が誤想過剰防衛の成立を認めたことについては検討の余地がないではないが、不合理な認定とまではいえない。以下、所論に即し、検討する。
すなわち、関係各証拠によれば、本件犯行の経緯等については、おおむね原判決が(補足説明)の項の二で説示するとおりであり、これを要約し、若干の補足をして摘示すると次のとおりである。
1 被告人と実母の乙川花子(以下「花子」という。)は簡易旅館「△△荘」を経営し、本件被害者の甲野は平成八年夏ころから本件時(平成一一年三月一六日)まで右旅館二階三号室に継続して宿泊していた。甲野は、酒癖がよくなく、短気な性格であり、他の宿泊客と口論し、被告人が仲裁に立ったこともあったが、その粗暴な言動にもかかわらず、実際に他人に暴行を加えたり、刃物を持ち出したりすることはなく、被告人や花子に対し因縁をつけるなどの反抗的な態度に出たこともなかった。むしろ、甲野は、花子に対しては、「オカン」、「ママ」などと呼んで慕っていた。
2 甲野は、同日午後四時ころ、飲酒のうえ外出先から戻り、旅館一階の花子の居室に寄り、同人とその場に居合わせた花子の知人の丙山春子(以下「丙山」という。当時七五歳)と雑談するなどしていたところ、△△荘から帰ろうとしていた丙山からきつい口調で自室に戻るように注意を受けたのに腹を立て、丙山に対し、「そんなこといわんでもええやないか。」、「帰るわ。人を馬鹿にするな。」と怒鳴りながら、自室に引き揚げたが、その途中においても、「ぶち殺したろか。」などと怒鳴り声を上げた。
3 花子の居室の隣の帳場にいた被告人は右の騒ぎに接し、花子らから事情を聞き出したが、そのころも、二階から「このやろう、殺したるぞ。」などという甲野の怒鳴り声を聞き、その調子がいつになく激しいと感じたこともあり、暴れないように注意しようと考えた。被告人は、自らをヤクザと称するなどの甲野のこれまでの粗暴な言動から畏怖心を抱いていたこともあり、甲野が素直に注意を聞き入れずに、反抗してくる事態をも予想し、これに対抗して使用する意図の下に鞘に入れた刃体の長さ約15.4センチメートルのサバイバルナイフ(以下「ナイフ」ともいう。)を取り出し、鞘の留め金を外した状態でこれを鞘ごと自己の左腰ベルトに挟んで、甲野の部屋に向かった。
4 被告人は、二階への階段を昇りながら、「お客さん(丙山のこと)やから怒らんようにしてやってよ。」と自室に戻っている甲野に声をかけ、次いで、甲野の部屋に至る二階の廊下からその部屋の方向を見ると、甲野が部屋の入口から顔を出したことから、再度、同様の言葉をかけたが、甲野が無言のまま部屋に入ったため、部屋の入口まで赴いた。すると、甲野が右手に出刃包丁を持って部屋から姿を現し、被告人は右廊下内で一メートル足らずの距離を隔てて甲野と向かい合うこととなった。包丁を見た被告人はとっさにこれを取り上げようとし、右手で刃の峰の上から刃体を握り、これを強く手前に引き寄せるなどした(被告人の左大腿部の切創はその際に包丁の切っ先が接触してできた傷と認められる。)が、甲野はこれに抵抗して包丁を自己の身体の側へ引き抜いたため、被告人は、包丁を握っていた右手掌の第二指から第五指まで直線状に深い切創を負い、包丁から手を離した。
5 被告人は、この時点で、甲野を殺害しようと決意し、左腰のベルトに挟んでいたナイフを右手で抜くなり、向かい合っていた甲野の腹胸部等を滅多突きにするなどし、その結果、甲野は、心臓刺創、左総頚動脈・左内頚静脈刺創など合計三〇箇所近い傷を負い、その居室内に倒れ込んで失血死した。この間、甲野は被告人に対して何ら反撃に出ることはなく、その状況は被告人においても認識していた。
以上のとおりである。
甲野が廊下で包丁を手にして被告人と対峙した際の状況については、被告人の供述に変遷が見られるが、原判決が説示するとおり、甲野は右手で包丁を順手に持って、腹の下辺りで刃を下にして前に向けていたが、その切っ先はやや斜め下方に向いており、これを持つ右腕もほぼ下に垂らした状態にあって、包丁を構える態勢にはなく、かつ、その際、甲野は無言であり、被告人に危害を加えかねないような態度を示していなかったと認めることができる。
ところで、甲野が包丁を持ち出した意図に関し、被告人は、母親花子や丙山に危害が加えられることを危惧したなどと供述するが、その直前までの階下における丙山との諍いは些細なことが原因であり、甲野は立腹しながらも、結局は老齢の丙山の言に従った形で二階の自室に戻っており、その帰りしなに「ぶち殺したる。」などと述べたことは、甲野の平素の言動等からすれば、腹立ちまぎれに発したいわゆる捨てぜりふにすぎないと認められること、前示のとおり、甲野は、酔余、宿泊客と口論になることはあっても、あくまで口先だけのことであり、粗暴な行為に出ることまではなかったこと、甲野は、△△荘で三年近くも被告人ないし花子との間で揉め事を起こすことなく生活してきており、特に、花子との関係は友好的なものであったこと、被告人が甲野の部屋に赴く直前にかけた言葉も、「お客さんやから怒らんようにしてやってよ。」という穏やかな内容のものであったことなどからすると、甲野は、花子と談話中の丙山に危害を加える意図まではなく、包丁を持ち出したのも、なだめようとして二階に上がって来た被告人の姿を見て威勢を示し、これを追い払うといった程度の意思しかなかったものと認められる。また、被告人から包丁を握られた後も、取り上げられまいとして抵抗こそしたものの、被告人に向けて突き出す等の行為には出ておらず、そこには積極的な加害の意思を看て取ることはできない(甲野が包丁の柄の部分を順手で握り、被告人が刃の峰の方から握っていたという状況の下で、もし甲野に積極的な加害の意思があったとすれば、被告人は甲野により相当重大な刺突行為を受けていたと思われる。)。これらの点からすると、被告人の殺害行為前における甲野の行為は急迫不正の侵害に当たらないというべきである。
次に、誤想防衛の点について検討する。
甲野が、被告人と対峙した際、包丁の刃先を斜め下方に向け、攻撃の素振りを見せておらず、被告人もその状況を認識していたことは前示のとおりである。被告人は、捜査段階において、当時の心境として、「私は甲野が出刃包丁を持ち出したのを見てムカッとして一瞬頭に血がのぼりました。私は甲野を旅館に宿泊させてから三年間、何かもめごとがあったら必ず甲野の味方になって下げんでもよい頭を下げてきた。それが、丙山のおばさんに一言文句を言われただけで出刃包丁みたいなものを持ち出してきた。なんで丙山に言われた位で出刃包丁を持ってこんとあかんのや、等と思うと悔しくて頭に血が昇った。」(平成一一年三月三一日付け警察官調書等)旨供述しており、包丁を見て狼狽する一方で、憤懣の念が生じたことも吐露している。甲野が被告人から取り上げられまいとして包丁を引き抜き、その行為により被告人の指が切られた直後、被告人は、その後の甲野の動静を見定めることもなく、いきなり、同人の腹部等の人体の枢要部に向けめった刺しといってよい態様で前示の刺突行為に及んでいるのであるが、その執拗さ、攻撃の部位、強度、そして、そこから窺われる殺意の強さは、包丁を見て抱いた甲野に対する憤懣の念と矛盾するものではなく、現に、被告人は、捜査段階において、「刺している際はこんな男殺してやろうという気持でした。」旨供述している(平成一一年三月二五日付け検察官調書)ところである。このような犯行の経緯、態様、被告人の心情等からすると、被告人は、危険物である包丁を甲野から取り上げようとしたところ、甲野の抵抗にあって指を切られて逆上し、専ら憤激の情から甲野を殺害したとみるのがむしろ自然な見方ともいえるのであり、急迫不正の侵害の存在を誤想した上で防衛の意思をもって本件行為に及んだとすることに疑問の余地がないわけではない。
しかしながら、被告人が、甲野の部屋の入口付近に近寄ったとき、中から包丁を手にした甲野が現れ、同人とわずか一メートル足らずの距離で対峙する形となり、とっさに刃体をつかむという行動に出て、負傷するに至っていることからすると、甲野の行為に驚愕、狼狽したことも窺われるところであり、そのような緊張した精神状態の下で、甲野の抵抗を受けてつかんだ包丁が引き抜かれた瞬間、被告人が、捜査段階で供述するように、「今度は私がやられる」(平成一一年三月三一日付け警察官調書)との思いが生じたことは、多少の疑問は残るにせよ不自然な心理の動きとまではいえず、被告人が同趣旨の供述を捜査及び公判を通じ繰り返している供述経過も併せてみると、その供述を直ちには排斥しがたいともいえる。ただ、甲野は包丁を手にしていたとはいえ、攻撃的な素振りは見せておらず、包丁を被告人の手から引き抜いた直後も攻撃に出た形跡がないこと、甲野が宿泊客等と口論をした際にも暴力沙汰に及ぶということはなかったこと、本件の直前の口論も丙山との間で生じたもので、その憤激の情は被告人に向けられていたわけではないこと、平素も甲野と被告人は宿泊客と旅館経営者という関係にあり、その長期に及ぶ滞在中に険悪な関係になったこともなかったこと等からすると、被告人が、仮に、急迫不正の侵害に当たる状況があると誤信したとしても、身体に重大な危害が加えられる危険までも想定していたとまでは認めがたく、「殺らな殺られる」との被告人の弁解にもかかわらず、その誤想の内容が、身体の安全に対する侵害にとどまるとした原判決の認定に誤りはないというべきである(なお、原判決は、めった刺しにした後も、被告人は被害者が再び起き上がり、被告人らを襲ってくることも強く懸念しており、倒れている被害者の傍らに落ちていた包丁を自ら取り上げたりしているうえ、母親に警察に連絡して援助を求めるように指示し、その後も倒れている被害者を手で突いて蘇生していないか確認したことが認められ、これらの事情をもって、被告人の甲野に対する強い畏怖心を窺わしめるものがある旨説示し、このような「強い畏怖心」を被告人が急迫不正の侵害を誤想した原因事情の一つとして指摘している。しかし、まず、本件殺害状況からは甲野が起き上がり反撃行為に出るなどということはあり得ず、この点の被告人の弁解はことさら畏怖心を強調したものと考えられる。犯行後、一階の洗面所で包丁をナイフと一緒にして水洗いし、ナイフを隠匿し、その後、当初の取調べで甲野から取り上げた包丁で刺したと弁解していた経過等からは、被告人が包丁を現場から持ち去ったのは罪証隠滅工作の一環であった可能性すらあり(なお、現行犯逮捕手続書には、△△旅館において「包丁」で腹部を刺した事件が発生した、との記載がある。)、そうでなくても、単に危険物である包丁をその場から取り除いたといった程度の意味しかないとみるべきものである。警察に連絡した点も、犯行を通報するためであって救援を求めたわけではなく、甲野をつついた(手ではなく足で)のも単に死亡を確認したにすぎない行為と認められる。なお、被告人は、足でつついた際、甲野は「どうも、すいませんでした。」と述べたなどと供述しているが、心臓刺創等の致命的な負傷内容や右のつつき行為に及ぶまでの時間的経過等を考えると、甲野が右のような言葉を述べ得る状態にあったは到底考えられず、右供述は甲野に非があることを強調せんがための虚偽供述と認められる。以上からすると、原判決がその列挙する事情を根拠にして、被告人が甲野に強い畏怖心を抱いていた旨説示しているのは相当とはいいがたい。)。
そこで、原判決の認定する誤想した侵害行為の危険性や急迫性の程度を前提にして、本件加害行為の防衛行為としての相当性をみるに、原判決も指摘するとおり、本件当時、甲野に対しては、ナイフを用いるとしても、これを示して威嚇するなり、身体の枢要でない部位を損傷して攻撃能力を奪うといったより程度の軽い反撃にとどめる余地はあり得たのであって、確定的殺意の下に殺傷能力の高い鋭利なナイフで人体の枢要部をめった刺しにしてその生命を奪うという本件行為は、その態様及び結果に鑑み、防衛行為としては相当性の範囲を著しく逸脱しているといわざるを得ない。前示のとおり、被告人は、防衛の意思を有していたとしても、甲野に対する強い憤激の情の下に、確定的殺意をもって身体の枢要部を狙い同人が倒れるまで執拗に刺し続けたことが認められるのであり、所論がいうように出血状況等を確認できないため自らの行為の効果に確信が持てないとの心理から結果として多数回にわたり刺し続けたというものではないことも明らかである。
以上によると、本件行為について、正当防衛ないし誤想防衛が成立する余地はない。他方、急迫不正の侵害を誤想し、防衛の意思もあるとして、誤想過剰防衛の成立を肯定した原判決の認定は不合理とまではいえない。原判決には所論がいうような事実の誤認はない。論旨は理由がない。
二 量刑不当の主張について
論旨は、要するに、本件犯行の経緯等からすれば、刑法三六条二項により刑の減免を行うべきであるのに、右規定の適用を認めることなく、懲役七年の実刑に処した原判決の量刑は重過ぎて不当である、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討する。
本件は、前示のとおりの経緯の下に、刃体の長さ約15.4センチメートルのサバイバルナイフで確定的殺意をもって被害者の腹胸部、背部、頚部などを多数回突き刺し、心臓刺創、左総頚動脈・左内頚静脈刺創により失血死させて殺害したが、その際、甲野が携帯していた包丁により自己の身体に危害を加えられるものと誤信していたとして、誤想過剰防衛が成立するとされた事案であるところ、原判決が(量刑の理由)の項で説示する内容は正当として是認できる。
すなわち、被告人は、被害者が包丁を用いて加害行為にまで及ぶとは客観的には考え難い状況下で、被害者の動静を見定めることもなく、主に憤激の情からいきなり腹部や胸部等をめった刺しにして殺害したものであり、その経緯に軽率な面があったことは否めない上、犯行態様は残虐というほかはなく、もとより結果は極めて重大である。尊い命を奪われた被害者の無念の情は察するに余りあり、当然のことながら遺族の処罰感情には厳しいものがある。本件を防衛行為としてみても、その相当性からの逸脱の程度が著しいことは前示のとおりである。しかも、被告人は、犯行後、自己の刑責を有利に導くため、殺害に用いたナイフを隠匿するなどの罪証隠滅工作を施した上、危害を加えてきた被害者の包丁を取り上げて防衛行為に及んだなどと虚偽の弁解をし、更に、公判廷では、自分が被害者である旨繰り返し述べて反省の情に乏しい態度に終始し、遺族に対して何らの被害弁償もしておらず、犯行後の情状も芳しいものではない。
これらの点を考えると、被告人の罪責は重い。
そうすると、些細なことに立腹し包丁を持ち出した上、これを取り上げられまいと抵抗し被告人の手に傷を負わせた被害者にも落ち度があること、成行上、包丁を手にした被害者とごく近い距離で対峙する形となって精神的に動揺をきたし、それが危害を加えられるのではないかとの誤信につながった事情も窺われること、被告人は、平素から被害者の粗暴な言動に苦慮しており、本件前も、被害者をなだめようとしてその部屋に赴いた経緯があること、犯行直後、警察に通報し、現場に駆けつけた警察官に対し自分が被害者を刺した旨申告して自首したこと、業務上過失傷害罪により罰金刑に処せられた以外には前科、前歴がないこと、これまでは通常の社会生活を営んできたことなど所論が指摘する被告人のために酌むべき諸事情を十分に考慮してみても、本件が過剰防衛の刑の任意的減免規定を類推適用して刑を減軽ないし免除すべき事案とは到底認められず、原判決の量刑はやむを得ないものであって、これが重過ぎて不当であるとはいえない。論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条、刑法二一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・森眞樹、裁判官・伊東武是、裁判官・多和田隆史)